2011年11月24日木曜日

「起きたことはすべて正しい」

「起きていることはすべて正しい」の本は読んでないけど、「起きたことはすべて正しい」は疑いようがないよな。事実であるという意味では。

不景気も震災も放射能漏れも特定の誰かのせいにすることは無理だと思うけど、事象としてそこには存在している。それを否定したり理由を考えたり犯人を探したり…、やるなとは言わないけどどこかの段階でそれは大事な事ではなくなって、今、目の前の状況に対してどうするか、未来をどう作っていくかが大事なんでしょう。抗いようのないことに巻き込まれたとしても、その都度、考えて動いていくことが大事じゃないのかな?

起きている事象、自身が置かれた状況が、過去の自分自身の選択の連続がそれをもたらしたのだとしたら、そんなことを愚痴ることに何の意味があるのだろう? それは他人からの同情を期待したただの自己保身のための言い訳じゃないのか。

「起きたことはすべて正しい」
目の前の事象を直視できないんだったら、いつまでたっても変わらない。むしろ悪化する。ジリ貧になる。

ユリウス・カエサルの言葉に有名なのがあるね。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない。」

厳しい現実を直視することから始まると思うよ。




多分ね。